8月の14日の高円寺JIROKICHIライヴを皮切りに、しばらくの期間ライヴが断続的に続く。そのすべてが、僕のバンドのソロ公演かライヴ・イベントのメイン・アクトの1人としての出演。これは、喜ばしいことであり、かつ責任重大なことだから、当然僕はライヴに向けての個人練習やメンタル&フィジカル・トレイニングをすることになる。もうかれこれ25年間も歌い続けてきているけど、これをサボってライヴの舞台に上がる勇気は僕には未だもって無い。これは他のシンガーさんたちも同じことだろう。
ライヴの日が近づいてくると必ず、一時的に僕は様々な重圧感や緊張感や不安感でいっぱいになる。「お客は来てくれるのだろうか?僕はお客を満足させられる歌とパフォーマンスができるのだろうか?このライヴを乗り切るだけの体力と体調を維持できるのだろうか?歌詞を忘れてしまいはしないか?声が出なくなったらどうしよう。興行収支が大赤字になったらどうしよう。こういう重圧を感じている僕の姿が、僕のスタッフや家族に不安感や危機感をもたらしてしまったらどうしよう。」などなど。
こういう重圧や不安感に立ち向かうための、あるいはそういう感情から逃避するための、唯一最大の方策は結局のところ「練習」しかない。本当にこれしかない。
デビュー前後2年間の僕の個人練習は、レコード会社のリハーサル・ルームで行っていた。だが、これはもうやらない。2度とやるつもりはない。なぜか?リハーサル・ルームの設備の行き届いた密閉された空間の中で練習時間がきっちり決められた状況で、独り練習を続けるうちに僕の歌声と歌に対する姿勢が、温室育ち的な脆弱さとサラリーマン的な杓子定規さを帯びるようになり、「引き篭もり」の人間の独白のような閉塞感が僕の歌声に宿るようになってしまったからだ。これは僕らしくないし、これじゃ駄目だと、ある時思った。
このことに気づいてからは、練習の環境と方法をガラリと変えた。
森林や遊歩道の多い郊外に引っ越して、野外で歌の練習をするようになった。しかも、けっして立ち止まらない。近所の森林や遊歩道の中を、歩き回りながら歌うのだ。気分と体の血行がのって来るまでの最初うちは、四季折々の森のざわめきや小鳥たちや虫たちでも眺めながら、鼻歌でも歌いつつぶらつく。そうするうち、心身が高揚してくると僕の歌と足は止まらなくなる。やがて自然と声は大きくなり、歩く速度は歌う曲にあわせてテンポを変える。そのまま、手足を動かして踊ったりもする。野外だから、僕とすれ違う人々や僕を遠目に見る人々が唖然としたり嬉々としたりする。僕は彼らの視線を感じて、恥ずかしさを覚えもするが、その半面彼らに対して「俺の歌、どうよ?いい感じ?俺の歌をタダで聴けて得したね。」などと不遜な思いすら抱きつつ、歌いながらその場を歩き去っていく。
今日は歌の練習をすると決めた日は、天候が雨だろうが風だろうが雪だろうが真夏の炎天下だろうが、必ず野外に出る。だが、練習時間と何を歌うかはその日の集中力次第。高い集中力で練習して、体得したかった表現方法がゲットできた日は、練習を短時間で打ち切るし、体調や悪かったり雑念に苛まされたりしてなかなか練習の成果が見えない日は、6,7時間かけても自分で納得がいくまで断続的に歌い続けるのだ。ライヴが近いからといっても、ライヴの演目を練習するとも限らない。僕が外に歌の練習に行くというと、家族から「じゃ、ついでにスーパーであれとこれを買ってきて。銀行でお金を出し入れしてきて。」と、お使いを申し付けられることも多々ある。そんな場合も、僕はこれを引き受ける。買い物袋を肩から下げたり銀行の通帳や預金を大事に隠し持ちながら、歌の練習をする。家のお使いと歌の練習を一緒にやって、何がいけない?
こういう練習を重ねるうちに、四季折々の自然や天候に晒されぬいた逞しさと叙情性、音楽業界の常識や時間に囚われない開放感、巷にありふれたリアルな生活感が、僕の歌声に宿るようになってきたと思う。ORITOの歌は、こうでなくてはつまらない。









